うっかり海外で働く日本人ママのつぶやき

平成の終わりの方に生まれた娘をもつ、平成の始まりの方に生まれた母です。アジアのどこかで働いています。結構赤裸々な心の声を綴ってます。

外国生活における情報と感情

外国人として外国に暮らしていると、触れる情報の量も質も必然的に落ちてしまう。

 

どんなに現地語が堪能でも、やはり母国語には遥かに及ばないから、頭の中まで届く情報量が少なくなるし、更にその少ない情報の解像度も低くなってしまう。

もちろん、外国人として現地の人とは別の視点で物事を見ることによって、情報を自分なりに面白く解釈することはできるかもしれないけれど、長く住んでいるとなかなかそういった新鮮な視点も失われつつある。


そうして量も解像度も低くなった情報しか頭の中に届かなくなると、どうしても感情が揺り動かされたり、強い興味をもったり、という心の動きが鈍くなる。

 

楽しい、面白い、と思うようなポジティブな感情が少なくなるというのは、それだけで心の健康に影響する。

そして悲しい、辛いというようなネガティブな感情も、ありのままに受け入れることで、前を向く動力になったりする。

心の動きが鈍くなると、どうしてもぼんやりとマイナスの方向に行きがちになるという傾向もあると思う。


だから、情報量も質もたくさん浴びれて、自分が心地良いと思える、生まれ育った自分の国に帰りたいと思うのは自然なことなんだろうな。

外国に住み続けるなら、インターネットやテレビ、書籍など、いろんな手段を使って、情報の量と質を補っていくのが、心の健康のためにはかなり重要なのかもしれない。

これから結婚する人に勝手にアドバイス

・お財布は別々にしない
・家を買う等、夫婦共通の目標をもつ
・主語を「個人」ではなく「家庭」にすることを意識する
・相手を尊敬する
・相手がやってくれることを当たり前だと思わず、感謝する
・他愛もない話をする
・子どもが生まれても、夫婦2人の時間を大切にする
・夫婦平等なんてありえない、お互い補い合う、寄りかかり合う
・自分を見失ってはいけないけれど、相手に譲るべきところは気持ちよく譲る


結婚6年目、婚姻危機の私より。

夫婦平等50:50なんてありえない

うちは、夫婦で家計を折半している。

家事育児もほぼほぼ折半。

 

お互いわりと定時で帰れる職場だけれど、
定時が私の方が30分早い関係で、
夫が朝の幼稚園送り、私が夜の幼稚園お迎え担当。


イマドキの男女平等共働き夫婦ってかんじでしょう?

 


でもね、折半は良くないと気づいた。

 

お互いに稼ぐし家事育児もやる。
だから、感謝や尊敬が生まれない。

 

感謝や尊敬が生まれないどころか、
相手に少しでもできていないところがあると、
「私はちゃんとやってるのに何で?」と減点方式になってしまう。

 

50:50を維持することってね、実際難しい。

だって仕事が立て込んでいたり、体調を崩すことだってある。

 

そして50:50が55:45になった途端、バランスが崩れるの。
でも元々60:40だったら、55:45になってもバランスはそのまま。


夫婦って、足りないところを補い合って、助け合うのが理想だよね。
50:50だと、双方別々に1人で頑張っているように感じる。

 

家計を折半していると仲の良い友人に言ったら、
「それじゃあいつでも離婚できるね!」と言われて、妙に納得しちゃったよ。
(彼女に悪気はなく、私も聞いて嫌な気持ちにならなかった)

 

ただ、自然の成り行きで50:50になったものを、
今更60:40に変えるのもなんかおかしいよね。

 

来年は夫婦としてどうやってやっていこうかな。

もはや50:50でもなく、100:0と0:100の個人同士になっていたりして。

ありのまま vs 気遣い

ありのままの自分でいられる、というのは、

お付き合いや結婚の決め手としてよく語られる言葉である。

 

自分の感情を素直に表現する娘を見て、

ああ、この子はありのままの自分で毎日生きているんだろうな、と思う。

(本当はそうではないかもしれないけれど。)

 

でも社会人や母として日々生活する私は、

会社では周りに気を遣い、家庭では娘に気を配って過ごしている。

 

ありのままの自分でいる時間っていつなんだろう。

 

年を重ねるにつれて、気を遣って生きることが増えてきた気がする。

その方が生きやすくなる気がするから。

 

でもね、生きやすくなるために気を遣って過ごしているのに、

だんだん生きにくくなってきたのはなぜだろう。

予想外の戸惑い

1人で過ごした夜も明け、夫と娘が帰ってきた。

娘に会いたいと心待ちにしていたものの、
いざ2人が帰ってくると、なぜだか気持ちが沈んでしまった。


1人で自宅にいた時は、自宅の整理をしながら、
「こんなことやりたいな」とかエネルギーが湧いてきていた。
でも2人がいたら、2人のことに忙殺されて、何もエネルギーが湧いてこない。


私はもしかして1人の方が過ごしやすいのか、
ならどうして結婚して家庭をもってしまったのか。

或いはたまの1人だからあんなに幸せな気持ちになれたのか。

夫婦関係が辛いのか、子育てが辛いのか。
(恐らく前者)

じゃあどうしたら私は幸せになれるのか。

映画やドラマで見るような、
離婚したカップルが分担して子どもを育てる方式はどうか。
子どもは2つ家庭があって混乱するか、或いは楽しめるか。

でもそれって子どもに悪影響?
いやいや、そんなことないでしょう。


そんな、予想外の戸惑いが生まれてしまった。

人間の気持ちって分からないものね。

解放

子どもが生まれて5年、初めて別々の場所で夜を過ごしている。

そして私は5年以上ぶりに、1人の夜を過ごしている。

 

今日の日が来るまではとても不安だった。

さみしさに心が潰れてしまうんじゃないかと。

けれど、いざ1人になってみたら、身軽でスッキリした気持ちに。

 

交通アクセスが良くなくてあまり子どもとは行けないエリアで、

クリスマスと年末の雰囲気を楽しみながら、

買い出しを兼ねたお散歩をして、

友人と居酒屋で他愛もない世間話を楽しんだ。

 

通勤や子どもとのお出かけ以外で外出することがほとんどないから、

こんなにも精神的、身体的に疲れを感じない帰り道にびっくり。

いつもの帰り道は、仕事や子連れ外出の疲れでへとへとなことが多くて。

 

帰宅後は湯船にたっぷりの温かいお湯を張り、

読書しながらゆっくり体を温め、

夜のスキンケアもドライヤーも自分のペースで時間を使えた。

 

そして今、1人で悠々と広いダブルベッドを占領して、

毛布にくるまりながら、こうして日記を書いている。

 

明日の朝、子どもが起きてくることを想定しなくていいから、

いくらでも夜ふかしができる。

 

ああ、なんて贅沢な休日なのだろう。

 

自分のためだけに時間を過ごすことは、心が解放された気持ちになる。

母親・妻という役割からの解放、なんて気持ちがいいのだろう。

 

 

そういえば今日の帰り道に空を見上げると、澄んだ夜空に星がいくつか輝いていた。

湿気の多いこのアジアの都市ではなかなかくっきりと星を目にすることはない。

 

東京にいた頃、忘年会や仕事で忙しくも充実感で満たされるこの時期、

夜遅く自宅に向かう途中に見えた夜空を思い出した。

 

アルコールと楽しい時間の余韻で温かい体と、

ぴりっとした冬の夜の空気に、いくつか輝く星。

 

幸せな冬の思い出と重ね合わせる。

年末の空気に思うこと

年末の空気が好き。

でも自分の年齢によって年末に思うことが変わってきた。

 

パワーにあふれていた20代の頃は、今年達成したことを箇条書きにして、満足感に浸っていた。

30代になってからは、年の瀬という「終わりが見える」ことに、安堵するようになった。

 

人生を勝ち抜けできそうな自分の両親を見て、羨ましく思うようになったのはいつからだろう。

私は小さな子どもを抱えて、まだまだ生きていかなくちゃいけない。

 

コロナもなく気軽に国境を跨いだ移動ができて、

景気もそんなに悪くなく、

2019年のラグビーワールドカップの成功、

そして2020年の東京オリンピックへの期待で溢れていたあの頃。

20代だったということもあり、周りでも結婚や出産というおめでたいイベントが続いていた。

 

世の中がコロナ禍となり、世界は分断され、人々の交流が減った。

30代を迎えると、周りでも夫婦の不仲や離婚等、現実が襲いかかってくる。

 

いつからだろうか、絶望が希望を上回ったのは。

いつからだろうか、辛いことが楽しいことを上回ったのは。

 

環境や年齢のせいにしてはいけない、と思いつつ、

しばらくはこの谷でじっとしているしかない。

 

そんなじっとしている中でも、一旦区切りの見える年末は、少し気持ちが楽になる。

「来年になれば…」という希望は、

コロナが収束しなかった2021年に打ち砕かれたから、

決して安易な希望はもたないように。

 

でも、心の持ちようということもあるから、区切りがついた後の来年は、

少しでも上向きになるといいな。

谷から抜け出せなくても、谷の中で少しでも楽しみを見いだせるように。